紋意匠へのこだわり
私どもでは、着物の基本中の基本は季節を問わず色無地一つ紋だと思っております。正絹の着物が一般大衆に普及し始めたのは、戦後の高度経済成長期に入ってからです。それ以前は、一般庶民が正絹の着物を所持することは稀なことでした。その時代庶民の着物といえば綿や御召。正絹の着物は大変貴重なもので、色無地にして五つ紋や三つ紋を入れたものです。
その時代、庶民が正式な場に着物で出向く際には、帯を変え結婚式にも葬式にも、あれもこれもすべて紋付色無地で済ませたものです。それほどに色無地の紋付というものは重要で大切なものでした。
現在、茶道や華道など和の伝統文化に携わっている者にとっては、一番重要で使いやすく、格のあるものは色無地の一つ紋となっております。
その大切な家紋を背中に入れる際に、方から背中にかけて地紋が紋にかからぬよう工夫しました。地紋が紋にかからないために、家紋が美しく引き立って見えます。お着物をお召しになったさい、特に胸元や衿に地紋がないために、生地と顔映りが上品で美しく見えるようになかっております。そのためにかけ衿が長く(約80センチ)、別織りをして織りこんでおります。
大王松・若松・松葉地紋
松の木や松葉を表現して図案化したものです。日本や中国では松の木には神が宿るといわれており、神格化されております。松の木は“神”そのものとみなされ、松の文様を身に纏うことは、神の加護を得、難を除け幸せを呼び込むものと考えられています。
能舞台を見ますと必ず松の絵が画かれておりますが、お能を舞って謡いを語ることはすなわち神に奉じることなのです。また、茶道のみならず世間一般で“松風”や“松籟”という銘の菓子や食品をよく目にしますが、松の木に風が吹いて音がするのを“神の声(松風)”として尊重するものです。特に茶室の中で釜の湯が煮える音を「松風」と言い、狭い茶室に神が舞い降りてきている様を称えている風情です。
松の文様をお召しになることで、難を避けて幸せを取り込んでいただきたいとの思いで、大王松・若松・松葉文様を製作いたしました。
北山杉地紋
京都を代表する文様として、立ち姿が美しく整然と並ぶさまはいかにも上品で、趣が深く洗練された柄ゆきです。
北山という呼び名は文化史上16世紀中ごろの天文文化花盛りの頃の呼び名のひとつで、この時代足利義満が建てた金閣寺に象徴される北山文化からきていると言われております。この時代に茶の湯や立華などに代表される生活文化が京都を中心として発展していきました。
華やかな大王松地紋とは対照的に上品で落ち着きのある風合いにしております。
高野槙地紋
昔、弘法大師空海が高野槙の枝葉を供花の代わりに御仏前(仏壇、墓前)に供えたことから、高野山では高野槙を供えるのが古くからの慣わしとなっています。
かつて、高野山には信仰生活において禁忌十則という守らなければならない規律や規則があり、更にその中で禁植有利竹木という決まりがあり、主に果実の生る木、鑑賞を楽しむための花が咲く木、竹、漆などを高野山の御山に植えることを禁じていました。そこで、御仏前に供える花の代わりが必要になり、花より丈夫で枯れにくく、一年中美しい光沢ある緑色の葉をつけ、心地よい香りを漂わせ、更に昔から高野山に多く自生している高野槙が使われたのです。
2006年9月6日、秋篠宮文仁親王殿下と紀子妃殿下との間に第3子であるご長男が誕生されました。同年9月12日、新宮さまの「命名の儀」が行われ、悠仁さまと命名されました。親王や内親王ら皇族の方には、命名の際に、身の回りの品などに用いる徽章・シンボルマークが定められます。悠仁さまには、大きくまっすぐに育ってほしいという思いが込められ、「高野槙」が選ばれました。
さざ波地紋
波は寄せては常に動くことから幸せが永年続くとして吉祥の象徴とされてきました。絶え間なく寄せては返す波の地紋は、どこまでも広がる大海原にいつまでも繰り返される穏やかな波のごとく幸せが続くよう願いが込められた柄です。